聖書のみことば
2022年7月
  7月3日 7月10日 7月17日 7月24日 7月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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7月10日主日礼拝音声

 十字架を背負って
2022年7月第2主日礼拝 7月10日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第8章34節〜9章1節

8章<34節>それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。<35節>自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。<36節>人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。<37節>自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。<38節>神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」9章<1節>また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 ただいま、マルコによる福音書8章34節から9章1節までをご一緒にお聞きしました。34節に「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」とあります。何とも印象的な言葉だと思います。「もしわたしに従いたいと志すのなら、自分を捨てなさい。そして自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と主イエスはおっしゃいました。
 主イエスに従うキリスト者としての生活を過ごすことは、私たちにとっては嬉しいことに違いありません。喜んで主にお従いしたいと思います。しかしそう思っている人であっても、改めて聖書からこのように厳しい言葉を聞かされますと、思わず背筋が伸びるような思いがするのではないでしょうか。

 今日の箇所では、この大変印象的な言葉から始まって、主イエスが様々なことを弟子たちに教える言葉が続いていきます。34節から9章1節までは主イエスが一息にこれをおっしゃったように読めるのですが、実際には、主イエスが折々に弟子たちに教えられた言葉が六つ組み合わされているようです。
 例えば35節に「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」という言葉が出てきますが、これは福音書のあちこちで同じ事柄が教えられます。またマルコによる福音書でもこの先の10章を見ますと同じような教えがもう一度出てきます。あるいは、今日の箇所に出てくる一つ一つの教えは、他の福音書では全然違う文脈の中に出てきたりします。ですから、元々は主イエスが別々の機会におっしゃった言葉が、ここに集められているということが分かります。
 マルコは、主イエスがまだ地上の御生涯を歩んでおられた時、折々に弟子たちに教えてくださった言葉を一生懸命思い出しながら、おそらく記憶を辿る作業では他の弟子たちにも助けてもらったかもしれませんが、一纏まりに集めて記しました。

 ここに記されている言葉は、いずれも命と死、生きることと死ぬことを思わせるような言葉が集められています。それは、マルコが福音書を書いた当時の教会が一つの危険に直面させられていたことを表しています。
 マルコによる福音書は四つの福音書の中で一番古い福音書で、おそらく紀元70年頃に書かれただろうと言われています。紀元70年は、エルサレム神殿がローマ軍によって破壊されるということが起こった年でした。13章には、主イエスが弟子たちに「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とエルサレム神殿の崩壊について予告される言葉が語られています。この福音書が紀元70年前後に書かれたとされるのは、主イエスのこの予告の言葉も取り入れられているところから、マルコが神殿の崩壊を実際に目の当たりにしたか、あるいはローマ軍がすっかり包囲して今にも落城しそうだという状況を経験する中で、この出来事について主イエスのおっしゃった言葉を思い出しながら書いていたからだろうと言われています。

 ところで、マルコによる福音書が紀元70年前後に記されていたとすると、その直前には教会を揺るがす大事件も起こっていました。それは紀元65年、ローマ皇帝ネロがローマの街でキリスト者たちを大量に捕らえて処刑するという出来事です。このローマでの大迫害の時に、使徒ペトロも使徒パウロも殉教したと伝えられています。『クオ・ヴァディス』という小説がありますが、その物語は、ペトロがこの大迫害最中のローマから逃げ出そうとしていると、向こうから主イエスが来られ、「お前が逃げるから、わたしが十字架に架かりに行く」と言ってローマに向かわれたため、ペトロも思い返してローマに向かい、逮捕され、主イエスと同じ死に方では申し訳ないと言って逆さ磔になったという伝説です。ですから、紀元65年のその出来事以来、キリスト者であるということは、当時の世界においては命がけのことになっていました。そのような時代に、マルコによる福音書は書かれました。
 もちろん、そういう厳しい迫害があろうがなかろうが、教会に連なるキリスト者たちは真剣に主イエスを信じて、弟子として御足の跡に従って行こうとしていました。しかし、初めての大規模な迫害に遭遇して、キリスト教会はどうなったでしょうか。困難な中で一致団結して、信仰によって勇気を与えられながら一生懸命歩んでいこうとしました。
 迫害に立ち向かう命の危険の中でなお信仰をもって生きていこうとする、そういう時に、しかし、ただ自分の情熱や努力によるのではどうしても無理が出てきてしまう、人間には弱いところがあるのです。不安や恐怖の方が勝り、主イエスが言われたように、「心は燃えても肉体は弱い」のです。主に従おうとする人は、自分自身の思いの強さとは別に、主イエスの御言葉を思い出して慰めを受け、信仰を励まされて、そして自分はキリスト者なのだということを思い返しながら生きていかなければならないのです。
 それでマルコは、主イエスが地上の御生涯を歩んでおられた時に、これから苦難を経験することになる弟子たちにとって、何が大切だと教えておられたかを一生懸命思い出して、今日の箇所に記しているのです。

 主イエスは、弟子たちが皆大変弱く脆いということをよく分かっておられ、そういう弟子たちに言葉をおかけになりました。もう一度、34節を見ますと「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」とあります。
 最初に、「わたしの後に従いたい者は」と言われています。弟子たちは、主イエスの後に従わないという選択もあり得たということが、ここから分かります。そしてそれは、私たちも同じなのです。同じ場所で、主イエスの語る同じ言葉を耳にしたら、皆が同じ行動になるかといえば、それは決まっているわけではありません。御言葉に反発を覚える人も、御言葉を聞き流して素通りしてしまう人もいるかもしれません。
 主イエスの「わたしの後に従いたい者は」という呼びかけは、別の言い方をするならば、「聞く耳のある者は聞きなさい」とおっしゃっていたのと同じような事柄です。この場所に身を置いているからといって、皆が同じように歩むとは限らないのです。けれども、「もしあなたが本当にわたしと共にありたいと願うのであれば、わたしの後に従いたいと思うのであれば」と、主イエスはまず言われました。

 そしてその上で、迫害や困難の中も主イエスと共に生活していきたいと願う人は、何を心がけるのがよいのでしょうか。
最初に言われるのは、「自分を捨てなさい」という言葉です。自分を捨てるというのはなかなか難しく、大変な要求がされていると感じるのではないでしょうか。しかし私たちは、自分自身をどこまでも愛し、自分の思いを追求する限りは、ついには主イエスに従うことはできないだろうと思います。
 「自分を捨てる」というのは、例えば修道院に入るとか、人生の喜びの一切合切を断念するというようなことではないかもしれません。ここで主イエスのおっしゃっているのは、「何であれ、あなた自身の思いを先立たせ、それが第一の事柄にならないようにしなさい」ということです。自分の願いや思いを先立たせてそれを旗印のように掲げながら自分の心のままを歩んでいくというあり方は、これはどなたもが一度は必ず経験しているあり方です。私たちの生まれつきは、そうなのです。誰もが自分の気ままに人生を過ごしたいし、自分の願った通りの人生を生きていけたらよいと、生まれつきの人はごく普通にそう考えます。
 しかし主イエスは、まずそういうあり方から離れるということを教えられるのです。どうしてでしょうか。自分の願いや思いを先立たせて自分を追求しようとする人は、結局は自分の人生すべてを失うことになるからです。35節の前半に「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」とあります。
 私たちは普通には気ままに生きたいと願うのですし、それを責めることもできません。しかしそう願っても、私たちの現実の人生は、決して自分の願った通りを生き切るとか生き抜くというようには行かないのです。どうしてかというと、私たちが気ままに過ごしたいと思う願望や欲求には際限がないからです。一つ叶えられたらそれで満足とはならず、次々に新たな願望が現れます。
 その一方で私たちの人生の実際はどうかというと、時間や能力においても、豊かさの面においても限界があるのです。私たちの欲求は「全世界を手に入れたい」と思うほど底なしなところがありますが、しかし、そのように思ってしまうと、あっという間に人生は過ぎゆき、命が尽きてしまうことになるのです。ですから36節に「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言われます。主イエスが私たちに向かって、「あなたの欲求や願望を先立たせないようにしなさい」とおっしゃるのは、そんなことをしていては自分に振り回されて、一生を虚しく過ごしてしまうことになるからです。

 しかしもちろん、願いや思いを押し殺せと言われているのかというと、そうではありません。私たちは、自分に必要なもの、自分が思うものを願い求めても良いのです。ただしそれは、「神さまがわたしに与えてくださるのであれば、どうか与えてください」という、そういう慎みをもって願い求めるのが良いことだろうと思います。「自分の思いが実現しなければ、生きていても何の意味もない」と極端に思ってしまいますと、私たちは遅かれ早かれ自分の人生をつまらないものだと思わざるを得なくなってしまいます。けれども、神は必要なものをすべて与えてくださいます。そしてそういう中で、「わたしはこれが必要なので、どうか御心ならば良いものとして、与えてください」と祈ることは、私たちに許されているのです。

 主イエスと共に歩みたいと志す人に、二番目に勧められていることは、「自分の十字架を背負う」ということです。これもなんとも不思議な言葉だと思います。「自分の十字架を背負う」とは印象的ですが、一体どういうことを言っているのでしょうか。「自分の十字架とは何だろう」と考えて、「これは、わたしが抱えている重荷のことだ」とお感じになる方もいらっしゃるでしょう。世間では、例えば生まれつき負っているハンディキャップのことを指して、「あの人が生まれつき背負っている十字架」という言い方がされたりします。ある註解書には、「神がその人に負わせておられる重荷がその人の十字架だ」と端的に言っていました。そしてその註解者によると、神と個々人の関係は十人十色なので、各人が背負う十字架も様々なのだと説明がされていました。
 けれども、「自分の十字架を背負う」という言い方は、主イエスがここでおっしゃるよりも前のユダヤ教の文献には出てこない言葉だということが知られています。もちろん主イエスが十字架に架かるより前にも無数の人たちがローマによって十字架に掛けられ殺されていった事実はあるのです。十字架によって処刑される人を当時の人たちは嫌というほど目の当たりにしていました。しかしそういう現実に囲まれていながら、「十字架を背負う」という言い方はされませんでした。
 つまり「自分の十字架を負う」という言い方は、主イエスから始まっている言葉なのです。ということは、これは確かに私たちが人生の中で重荷を担い苦難を経験するということですけれども、しかし、私たちが自分一人だけで苦しみや嘆きを背負わなければならないというのではなくて、「主イエス・キリストがどんなに苦しい時にも、どんなに深い嘆きの場でも、そこに共いてくださる。私たちと一緒にいてくださることを知る」ということでもあるのです。

 私たちは、まず最初のこととして、自分の願いや思いを第一として追いかけるのを止めることが勧められています。そしてそういう人生の中では、私たちが経験する困難や苦しみ、嘆きについては、もはや自分一人だけで苦しんだり悲しんだり痛んだりするのではなくて、「十字架にお架かりになった主イエス・キリストが共にいて、一緒に歩んでくださる」ことを信じて生きていくのです。主が共にいてくださる中で、私たちは自分の辛さや苦しみや嘆きを背負って生きていって良いのです。ですから、一緒に歩んでくださる主イエスに、「どうかわたしの辛さ、苦しみを支えてください。どうか弱いわたしを助けてください」と祈っても良いのです。
 これは何気ないことに思えるかもしれませんが、実は大切なことです。主イエスがどんな時にも私たちをご存知でいてくださり、一緒にいてくださる。そして、本当に大変な場面で主イエスに「助けてください。支えてください」と祈りながら生きていって良いのだと知っているキリスト者は、そのことによって、自分自身の人生を担い続け、歩んでいくことができるようにされます。
 もし私たちが自分の力だけで生きなければならないとすれば、私たちは困難や苦しみ、嘆きに直面する時に、そこから逃げ出し、自分には関わりがないようにしてしまうということがあり得るだろうと思います。けれどもそうではなく、私たちに与えられた人生を感謝し、喜んで終わりまで生きていくためには、主イエスに「助けてください」と祈れることが極めて重要なのです。

 そして最後に主イエスは、「わたしに従いなさい」と言われます。これは言葉の上では、いかにも私たち人間が自分の決心や力によって主イエスに従っていこうと努力することのように感じますが、そうではありません。主イエスは私たちのために御自身が貧しくなられ、十字架までの低い道のりを辿ってくださいました。そういう主イエス・キリストが共に歩んでくださるのですから、私たちは自分の力で従うのではなく、「主イエスと共に歩む生活を送らせていただく」のです。そうであれば、「わたしに従いなさい」という言葉は、主イエスの招きの言葉です。
 さまざまに繰り返される迫害の恐怖、あるいはそれが起こるかもしれない不安、そのようなものに見舞われながら、この福音書が書かれた時代の教会の人たちは信仰生活を生きました。キリスト者であるということが命がけのことになりつつある、そういう中では、自分の決心や意思や努力だけで主イエスに従い切ることはなかなかできることではありません。たとえば、主イエスの十字架の出来事の前には、「どんなことがあっても主イエスに従って行く」と言い張っていたペトロを始め、弟子たちは皆、実際に主イエスが捕らえられた時には蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいました。
 私たちは、「自分の思いで従う」という点では弱いところがあるのです。自分の力で従おうとしても従っていけない、そんな私たちのために十字架に架かってくださった主イエスが共にいてくださるのです。ですから私たちは、たとえどんなに弱いあり方をしても、どんな惨めなあり方をしても、どんなに駄目になってしまう時でも、「十字架の主」から逃げることはできません。主イエスは、それでも私たちのために十字架に架かってくださっている、私たちの主であり続けてくださっているからです。
 そういう主イエス・キリストを見上げて、キリスト者は、自分が経験しているこの世の苦しみや痛みや嘆きはすべて主イエス・キリストの十字架によって既に背負われている重荷であることを覚えながら、主イエスに感謝し、御業を賛美しながら歩んでいくのです。

 そしてそういう生活の中で初めて、35節後半に述べられていることが真実だということが分かるようにされていきます。35節後半に「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」とあります。
今日の日本では、1世紀や2世紀のような厳しい形での迫害を考えなくてもよいと思います。そういう意味で、私たちは大変に感謝すべき状況に置かれていると思います。
 しかしだからといって、キリスト者が何も不安がないのか、何の恐れもないのかというと、そうではありません。私たちは、たとえ迫害がないとしても、必ずいずれは地上の死の時を迎えます。また今日では、迫害というような厳しい仕方ではありませんが、真綿で首を絞められるような仕方で様々な不安や誘惑が私たちに臨んでいると言ってもよいと思います。高齢化の中で、教会が活力を失い次第に滅びに向かうのではないかという恐れがあります。年配の方々は、これから先の教会はどうなるだろうかと、また若い世代の人たちは、これから先の教会には誰もいなくなってしまうのではないかと、そんな不安を抱くかもしれません。たとえ迫害がなくても、私たちはやはり、死の脅かしに翻弄されるところがあるのです。

 私たちは、与えられているこの地上の生活を、今の状況の中で生きていくほかありません。けれども、今日教えられていることは、その命の時間を私たちがどう生きるかがとても大切だということです。命の時間を、自分たちの思いを実現させることばかりに費やす人は、結局は最後に何も残せずに滅んでしまうことになります。しかし、「十字架の主が共に歩んでくださる。どんな時もわたしを支えてくださる」と信じる人は、その人自身の一生の時間は確かに終わりますが、しかしそれでもなお、教会の歩みの中にその人の歩みは覚えられ、受け継がれていくことになるのです。

 そして、地上の生活を終えた人はどうなるのでしょうか。主イエス・キリストが人の子として、裁き主としてこの世界を再び訪れてくださって最後の審判をされる時まで、神の身許に匿われて、永遠の命を待ち望みながら過ごすようになります。38節には、主イエスが人の子として神の栄光の輝きをその身にまとい天使たちを従えておいでになるという約束が語られています。
 「人の子」という呼び名は、主イエスが好んで御自身に当ててお使いになった呼び名です。これは元々は旧約聖書ダニエル書7章13節14節に由来する言葉です。そこには、「人の子のような方がおいでになって、一切の権威、一切の輝き、一切の支配の権能を与えられて、永遠の御国の統治者になる」という約束が語られています。これは、やがて来る人の子の姿ですから、今、その人の子は地上では僕(しもべ)の姿を取っているのです。主イエス・キリストが大変に貧しい姿に身をやつして弟子たちと共に歩んでおられたように、あるいは今、キリストの名で呼ばれる教会がこの地上にあって普通の人間の集まりでしかないような姿で存在しているとしても、そこに主イエスは共にいてくださいます。
 けれども終わりの日には、主イエス・キリストはこの世界を訪れてくださって、そして何が神の永遠として通用することなのか、何が通用しないで過ぎ去っていくことなのかをはっきりと裁かれます。今の時代に、私たちの世界の中には様々な問題があります。迫害、飢饉、疫病、戦い、あるいは神に信頼して周りの人たちと和らいで生活する代わりに隣人を踏みつけ虐げ力づくで征服していくような、そういう風潮が世の中に広く見られるとしても、しかし最後には人の子がやって来られ、永遠において通用する正しさを残し、そうでないものが滅ぼされていく、そういう裁きが行われるのです。

 「神さまの完全な御支配が実現して、神さまの御国が私たちのもとにも訪れる」ことを信じ、希望を抱いて生きるようにと、主イエスは教えられました。
 最後に9章1節で主イエスは、「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」と言われました。私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を知らされて、信仰を与えられ、その信仰によって神の御国がすでに私たちの上に始められていることを知るようにされています。
私たちが日ごとに見聞きする世間の生活というのは、人間の破れや弱さに満ちた生活ですけれども、しかしそういう地上の生活の中に置かれながらも、私たちキリスト者はもう一つ別の現実を知らされて、それを信じて生きていくのです。たとえ今、私たちの生活が破れに満ち、問題がたくさんあっても、それで終わりまで続いていくのではありません。最後には神がすべてを完成してくださるのです。

 そういう世界の中に置かれ、「あなたはそれでも生きているし、あなたの生きたことは決して無駄にならない。あなたが一生懸命生きることを神さまが用いてくださり、意味あるものとしてくださる」という希望を与えられて、私たちは日々の生活を過ごしていきます。
 私たちは弱く、失敗もするのです。けれどもキリスト者には、「わたしの人生は失敗が多く、とても天使のようには生きられないけれども、しかしこの弱いわたしを神さまがなお持ち運んでくださり、用いてくださることがある」ということを地上の生活の中で見せられ、喜ばされ、感謝して生きる、そういう時もあるのです。私たちは情けなく弱い者に過ぎないはずなのに、時には自分でも驚くほど一生懸命に働いて、良い働きに用いられたことを感謝する、そういう時もあるのです。
 その時には私たちは、「わたしは弱い者に過ぎないけれど、神さまがわたしを用いてくださり御業に用いてくださった。なんと光栄なことか」と感謝するに違いありません。そういう仕方で、神の国、神の御支配は、今すでに私たちの上に現れ始めているのです。
 そして、私たちが今、神に仕え、主イエスに仕えて、この世界を愛し、皆で一緒に生きようとする営みというのは、私たちの間でだけ起こっていることではなく、最後に神が「それは正しいことだ」とおっしゃってくださることに繋がっていくことなのです。

 もちろん、神のことを知らずそれを認めようとしない人たちには理解されないかもしれません。けれども、主イエスがいつも共にいてくださり、私たちの不安も恐れもすべてを十字架によって取り去ってくださって、「あなたはここからもう一度生きて良い。あなたはどんなに状況が悪く思えても、ここから生きることができるのだ」という言葉を聞かされながら、私たちは、神の御国の力に与って生きるようにされています。
 神の力が働いているからこそ、私たちは今日この場所に集められ、皆で神の御業を讃える群れとされているのです。
 そうであるならば、私たちは、心の底から主イエス・キリストを讃え、そして思い煩いを委ねてここから再び歩み出す、そのような者たちとされたいと願うのです。お祈りを捧げましょう。

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